令和の日に入院した母の旅立ちから今日まで

令和元年5月1日に母が独居から緊急入院。令和5年6月20日に安らかな顔立ちで旅立ちました。コロナ前の施設探し、生活保護申請、コロナ禍での入居生活で感じたこと、反省点をこれからも大切な人を支え続ける人の参考になればと思いブログを続けてます

母との思い出めぐりからの納骨

母の誕生日に納骨するつもりでしたが台風の影響で2週間ずらして神戸に戻りました。

神戸を巡った日は曇りでそれほど暑くなく、翌日の納骨日も過ごしやすかったです。

両日とも好天に恵まれたのは母のおかげです。

母とじっくり神戸を散策したかったので神戸駅周辺のホテルで前泊。翌日早朝から母の写真と共に散歩をスタート。

ハーバーランド元町商店街メリケンパーク~ポートタワー(改修中)~神戸大丸~

三ノ宮~センター街~神戸阪急(旧神戸そごう)~二宮筋~北野町~異人館~子供の園~諏訪山公園~関帝廟名谷妙法寺~新長田~ポートアイランド~貿易センタービル~市役所~東遊園地

私の父は仕事一筋で家を顧みない人だったので、幼少の記憶はもっぱら母との時間しかありません。それを辿るように回りヘトヘトになりましたが、きっと母も思い出しながら喜んでくれたことでしょう。

翌日の納骨もスムーズに終えました。お墓を開けてもらうと祖父、祖母の骨壺が並んでいたので、その真ん中に母を供えました。親子三人で神戸の空の下で安らかに。

30年来の約束を果たしたよ。

 

高齢者との電話コミュニケーション

ブロ友さんがガラケーを交換したという記事を読んで思い返しました。

私も母には最期までガラケーお持たせていました。3Gが来年1月に廃止されると知り、どのように交換して使い方を覚えさせるかを相当悩みました。結果的に入院してしまったので廃止だけで終わりましたが、高齢認知症の身内との連絡は誰もが突き当たる課題です。

母は健常のころから電子機器が好きで自分で携帯やビデオ、CDプレイヤー、冷蔵庫、レンジ、電卓辞書などマニュアルを読み込んで使いこなしていました。認知症が進むにつれその機械の目的、操作が分からなくなり放置、勝手に廃棄したりもしましたが、なぜか携帯だけは最後まで何とか使えていました。たぶん、昔から毎日のように電話していた習慣が残っていたからでしょう。母の場合は認知症が進行するにつれ、

①携帯をかけてくる頻度が徐々に減る

②会話が短文になる

③こちらからかけてもうまく受信ボタンを押せずに切れる

④昼夜を問わずに携帯の頻度が急激に増えるが、かけた理由を忘れる、会話が一方的になる、同じことを何度も言う

⑤ピタッとかからなくなる

時系列ではこのような感じでした。経験から特に④は注意してほしいと思います。

ストレスや何らかの理由で話したい意欲があるのにそれをうまく伝えられない、話をして安心したい・・④は不安要素が最高潮にあるSOS発信の状態なのです。

私は自営業なのでいつでも電話を取れましたが、普通ではそういう訳にもいかず面倒に思いイライラすることもあるでしょう。しかし、ある日突然に電話が止み静かになります。

「あぁ楽になった」

これは本人が諦めたのではなく、認知症が最も重い段階に入ったのです。

この段階になると電話以外の生活環境にも症状が重くでているはずです。

介護者にも生活があるので大変だと思いますが、どうか面倒に思わずコミュニケーションを丁寧に取ってあげてください。限られたこの時間は二度と来ないです。

納骨の延期は亡き母の意思かも

ダブル台風の接近で東京から母を神戸に連れて帰るのが難しくなりました。

15日に帰省、17日の誕生日に納骨スケジュールをやむなくリスケ。

仏壇の母には

「雨の中の神戸散策、納骨は大変だから天気にしてね」

と再三話しかけてましたが叶わず。

そんなに帰りたくないの?

怪訝に思いつつ、ふと思い出した・・・

月曜日の四十九日に焼肉屋さんへ連れて行ったあと、今度は誕生日の日に鰻屋さんに連れていくことを約束したこと・・・

まさか まさか 鰻屋に行きたいから延期?

鰻の後に納骨してほしいの?

はいはい。母なら十二分にあり得る。

母の四十九日は

8月7日は母の四十九日。ディーンアンドデルーカのバックに母を忍ばせて、お肉大好きな母のために焼肉屋さんへ連れて行きました。

施設では薄味淡白な食事しか食べられなかったので、いつも面会に行くとお好み焼き、たこ焼きなど濃い味の差し入れを要求されました。

「おいしい、おいしい」と言いながら

満面の笑みと食欲で食べてたことを思い出します。

周りの体験談でも食に貪欲な人ほど最後まで元気に過ごせるみたいです。

来週はお盆の時期。そして17日は母の誕生日。すこぶる暑そうですが母と神戸を散策して誕生日の日に祖父祖母が眠るお墓に納骨する予定です。

強気の母ですから台風なんか寄せつけないでしょうね。

高齢者に大切なのは心のふれあい

 ブロ友さんの面会謝絶についての記事を読んで、母のことを改めて思いかえしました。コロナ禍での母の施設での対応は本当に不可思議なもので、面会は1階の食堂のみ。居室(一人部屋)での面会ができなかったのです。コロナ対策としてはどう考えても効果がない(不特定多数が行き交う食堂での面会は意味不明)。予想通り施設クラスターが発生し施設長がいつの間にか交代。クラスターの件も家族には一切の連絡なし(懇意にしていた看護師さんがポロっとしゃべって発覚)。

 しかしある日施設のケアマネから突然「長らくお会いしてないでしょうから来てはどうですか」との電話がありました。居室内のカメラで母の様子が最近おかしいとは思っていたので訪問すると案の定、部屋は荒れ放題(母が掃除を嫌がるとの理由で放置)、母の精神状態も限界に来ていました。ここまでの状態にならないと引き合わせない施設の対応には本当にあきれましたが、これが多くの施設での現状かもしれないです。

 死ぬよりかは良いでしょう?

 身内の介護をしたことがない、介護の実情を把握できていない人たちからすれば認知症が進むぐらいなら良いじゃないかと思っているのでしょう。最愛の身内が自分からどんどん遠ざかっていく姿を見るのがどれだけつらいか。本人にとっても、家族にとっても、いっそうのこと死別するほうがお互い受け入れられるのではと思ったこともあります。最後の数カ月も母は本当に一人で頑張りました。頑張りすぎるぐらい頑張りました。こんなに頑張らせたくなかったです。

 コロナ禍でも訪問を受け入れ、家族の触れ合いを第一にしている施設も一部にはあるそうです。本人にしてあげられる一番大事なことは寿命ではありません。触れ合いの時間であることをみんな気づいてほしい。

役所の仕事は人が亡くなるまで

 母が亡くなった日の翌日に生活保護課に行きました。本当は別の目的で行ったのですが結果的に母の報告をすることになりました。

  実は母が昨日亡くなりました。何か書面手続きは必要ですか?

  ありません。今日で廃止します。

 保護申請のときはさまざまな書類を書いて、追完資料や面談を経たのですが、廃止するときはあっけなく一言で済みました。 

 しばらくして保護課から保護廃止決定通知書が届きました。

  廃止の理由 死亡により廃止します。

  過支給額は法80条により返納を免除します。

 生活保護法第80条には「保護の実施機関は、保護の変更、廃止又は停止に伴い、 前渡した保護金品の全部又は一部を返還させるべき場合において、これを 消費し、又は喪失した被保護者に、やむを得ない事由があると認めるときは、 これを返還させないことができる。」とあります。

 長期入院により生活保護の一部が過支給された形になりその残額が免除されました。過支給の取り扱いは自治体によって違うそうです。ちなみに病院で死亡後のエンゼルケア費用は実費扱いです。保護費ではカバーされません。役所の仕事は出生から死亡まで、と理解させられました。

 

 

神戸に帰りたいを叶えるために

 母は神戸に生まれ育ちの94年の人生でした。6人兄弟姉妹の末っ子。幼少に戦火をくぐり抜け、高度経済成長、バブル、阪神大震災・・悲喜こもごもの人生だったと思います。色々あって最後は堺市の施設に入居しました。

 コロナ前まではすごく楽しそうに過ごしていて「ここで最後を迎える」と周りに言ってましたが、コロナ禍で認知症が進行しふさぎ込むようになってからは「神戸に帰りたい」と嘆くことが多かったです。最後の入院でも「神戸に帰りたい?」と聞くと、酸素マスクを付けながらも力強くうなずきました。

 神戸には母の両親の墓があります。生前、自分が亡くなっても納骨しないで両親と一緒にすぐ散骨してほしいと言っていました。最初はそうしようと思いましたが母の最後の願いを叶えたい、最後の孝行として両親のもとに帰らせることにしました。いつかの墓じまいまでは、母が好きな神戸で、家族ですごさせてあげたいです。納骨の前日は神戸の縁の地を母と一緒にめぐるつもりです。