令和の日に入院した母の旅立ちから今日まで

令和元年5月1日に母が独居から緊急入院。令和5年6月20日に安らかな顔立ちで旅立ちました。コロナ前の施設探し、生活保護申請、コロナ禍での入居生活で感じたこと、反省点をこれからも大切な人を支え続ける人の参考になればと思いブログを続けてます

最後の願いを叶えに有馬温泉へ

実家の墓参りで神戸へ行きました。

コロナ前、施設に入所し元気なころ

「また有馬温泉に行きたい。家族同伴ならいいそうよ」

口癖のように言ってました。

その時はいつでも行けるからと思い聞き流してたのですが、コロナになって面会、外出がまったくできなくなり、結局そのまま時間が経過。本人の希望を叶えることができませんでした。

そこで今回の墓参りでは母の遺骨と両親の位牌を持って有馬温泉で一泊しました。

実際に母と最後に来たのは20年近く前だったかな。

好物の神戸牛のすき焼きなどを取り分け供えて一緒に部屋食しました。

いつも対面に座って慌ただしく必死に食べている姿が見えた気がします(笑)

温泉入浴場には連れてはいけないので代わりに温泉を小瓶に入れて供えました。

来年は分からないけどまたどこかへ連れていきたいと思います。

有馬温泉



 

永代供養はいつ考えるか

 昨年の今ごろ、施設から呼び出しがありました。コロナは落ち着いていたにもかかわらず訪問させてくれず、手が負えなくなったらすぐに連絡が来ました。いつも愛想よくしてくれるヘルパーさんにも久しぶりに会えたのですが、なぜかバツが悪そうな表情で目をそらしました。母の部屋に入って状況をすぐに理解しました。そして2か月後に旅立ちました。もっと早く、別の施設に引っ越しをすべきだったと今でも感じることが唯一の反省です。

 母と両親が眠っている神戸の墓地から永代供養施設を落成したとのお知らせが来ました。年数回の墓参りで神戸に戻ることをいつまで続けられるか、母にも墓じまいを頼まれてましたがこれで解決策が見つかりました。

 母の介護を通じて自分のことも考えるようになり、それには元気な間に準備をしなければならない。その一つが墓じまいと自分のエンディングです。

 自分が施設に入るタイミングで3人を永代供養に改葬しようと思います。母の遺言どおりに散骨して墓じまいをしたら神戸には戻らないと思っていましたが、永代供養にしてもらい最後に私も入れてもらおうと思います。

 また会える日までがんばるよ。

さよなら3G携帯

10年近くお世話になったソフトバンクの3G携帯を解約しました。
母との通話、仕事と利便性のためにスマホと2台持ちしていましたが、今月末で3Gサービスが終了することで役目を終えることになりました。

母の携帯は、3Gが終了することで対応に悩みましたが、その必要がないことがはっきりしたときに、他界する1カ月ほど前に解約しました。

晩年は携帯の操作が分からなくなりましたが、元気なころは何かあると昼夜問わずにかけてきたので、母の着信音だけは静かな着メロに設定していました。
もうその着信ランプと音色もなく寂しいですが、これでまた一歩先へ進めそうです。

年末のご挨拶に今年も行きます

母とは、毎年春と冬に母方の両親の墓参りをするのがお決まりでした。
祖父母は私が幼少の頃に亡くなったので、母と二人で50年近く通っていることになります。本当は祖父母と親戚の2カ所だけなのですが、誰も参らないのは可哀想という理由で霊園内の無縁仏、集団埋葬など特に縁のない所にも必ず線香をあげていました。坂の上にある霊園は行くだけでも大変。参る墓も多く一日仕事になります。

母が若いころ、私がまだ学生のころ、電車とバスを乗り継いでの墓参りはちょっとした小旅行でした。母もすこぶるパワーがあり、たまにしか来ない街で買い物したり、外食したりするのが楽しかったです。

私が社会人になって車で連れて行けるようになったころ、母は年齢からの膝痛がひどかったので移動はもっぱら車でした。車なので行動範囲が広がり、神戸~大阪~神戸と移動しながら馴染みの和食レストランで食べて帰るのがパターン。母の行動範囲も狭まってきた頃で、車でのドライブは息抜きとして本当に楽しそうでした。

年齢が80半ばになったころ、墓参りに対して母は消極的になりました。歩行困難も出始めましたが、外出・外食できる楽しみに負けて(?)何とかついてきました。それでも車から降りることはなく「代わりに線香をあげてきて」と車中で待機。本人に言わせると車中で手を合わせてたそう。

90台の施設入居前では、ついに私だけの墓参りになりました。認知症が進んでいる状況下でも「今年も墓参りに行ってきたよ」と伝えると涙ぐんだり、パッと笑顔で「ありがとう。ありがとう!」と答えていました。

今は両親と3人で安らかにいるお墓に、来月もこれからも行ってきます。

母の遺言

母には20年前に遺言書を書いてもらいました。

 ①財産は均等に分ける

 ②延命治療はしない

 ③神戸の墓に散骨

①は分ける財産がなく終了 ②③は希望通りに終えました。

それ以外にも二つ、口頭での遺言がありました。

「私がボケたら早く言ってね」

施設に入ってから、自分が間違ってないことを確認したくて言い訳の電話をかけてきたり、架空の人を創作して責任を転嫁したり・・カンの良い母なので、自分が自分でなくなってきていることを感じてたと思うので言えなかったです。というか、言えるわけがない。

「助からないと分かったら教えてね」

母が自分の両親を含め3人を看取ったのでそう思ったのでしょう。

最後の入院で母の旅立ちまでの時期を告知されてから、自分の中でものすごい葛藤がありました。母には励ましのつもりで一緒に神戸に帰る約束をしたものの、それは叶うようで叶わない約束。無理を承知で母に向かって嘘をついている自分。これから先も昇華できない記憶です。

二つとも約束を守れなくてごめんね。

旅立ちから4カ月が過ぎて

母の旅立ちから4カ月が過ぎました。

いまは平常な気持ちで日々過ごしています。

これまでは24時間365日、夜中・明け方の母からの連続電話、意味不明な留守電メッセージ、施設からの状況報告や確認事項などを気にして常に心もとない気持ちでしたが、すべて無くなったことで精神的に解放されました。

それでも時どき無意識に3G携帯の着信を確認しているのは長年の癖でしょうか。携帯を置いてどこかへ行くこともありえなかったです。

アマゾンや楽天のおすすめ広告、購買履歴にオムツ用品や母が愛飲していたリンゴジュースなどが出るたびに何とも言えない気持ちにはなります。でもこういうのも一つずつ整理されていつかは記憶からも消えていくのかな。

ブロ友さんが「介護を最後までやり遂げたことに反省点はあるけど悔いはない」と書かれていました。私もまったく同じ気持ちです。今も他愛のない話を母の遺影に向かってしていますが面と向かって言い切れます。反論されても自信あります(笑)

自分が介護されるときはどんな時代なのか。

別れに共通するものは

ブロ友さんのお母様が他界された記事を早朝に読んで涙が溢れました。

介護、看取りだといつかは通る道だろうけど、4カ月前の母と一つ一つ重ね合わせて自分の感情があふれてしまいました。

私の母も酸素マスクの下でパクパクしてました。施設にいたとき、いつも周りに感謝の言葉を言っていて、私を認識するのが難しくなってからも同じように感謝の言葉を言ってくれてました。元気なころはそんな言葉聞いたことないけど(苦笑)

最後の入院2カ月はほとんどが看取り期間でした。私が病院に行くことが分かると何度も復活して主治医を驚かせました。しかし徐々にまったりした状況が続き最後はほとんど反応しなくなりました。

母には頑張ってという気持ちが半分、早く楽にしてあげたいという気持ちが半分。

こんな感情は親不孝なのかと自問もしたけどこれが人間なのかもしれない。